リン工場でパトリシアの上司だったゲアハルト・ノイマンは、ジェット推進分野の伝説的なイノベーターでした。パトリシアは文献を借りたりGEの講義を受けたりして、空気力学やガスタービンの理論を学びました。数学の勉強も続け、ボストン大学に入学してさらに上の学位を取得しました。「弦理論が出てくるよりずっと前のことよ。複素変数やクッタ・ジュコーフスキーの定理が最先端だった」と彼女は笑います。図らずも、クッタ・ジュコーフスキーの定理は空気力学の重要な基礎になっていきます。
新たに身につけたスキルはすぐに役立ちました。ちょうどそのころ、ノイマンがGE初の超音速ジェットエンジンJ79の開発を開始しました。最高マッハ2、つまり音速の2倍の速度の実現に向けて重要な鍵を握るのは、エンジン内に取り込まれた空気の体積を調節するコンプレッサーでした。「こんなことを覚えているなんておかしいけれど、私は環状シュラウドの報告書を書く担当になったのよ。コンプレッサーブレードの真ん中あたりにある2番目の環で、乱流を排除するためのもの」とパトリシアが言うと、マークがすかさず「今ではミッドスパン・シュラウドと呼ぶんだ」と補足します。
パトリシアはコンプレッサーのテストデータの解析にも取り組みました。しかし、テストはいつもうまく行くとはかぎりません。「研究用コンプレッサーがテストセルの奥の壁から落ちかかったこともあったわ。強度以上に稼働させたら、壁から落ちて床がだめになってしまった」と振り返ります。
1949年、GEは航空部門のオハイオ州イーブンデールへの移転を開始します。2年ほどのうちに、工場の従業員は1200人から1万2000人に増えました。パトリシアが新しい工場に移った1952年の段階では、まだすべてが流動的でした。「大勢の配置換えがあって、ダウンタウンのホテルから工場まで直通のバスが出ていた」と言います。
その中の1人が、ボストン出身でGEの物流部門で働いていた若き日のアートです。2人は結婚し、1955年にパトリシアは産休をとってジェットエンジンの開発を離れました。「私たちは核家族で、家族は私たち夫婦と赤ちゃんだけ。まわりに親戚は1人もいなかった」とパトリシアは言います。
アートはGEで37年働き、マークの兄もGEの社員でした。J79はF-4ファントムなど多くの戦闘機に使用されました。今でも1,300基以上のJ79エンジンが現役で、その多くは2020年まで使われる見込みです。
電話の終わりに、パトリシアがマークにGEで働いてどれくらいになるのか尋ねました。「1983年から」という答えに、パトリシアは言いました。
「神のご加護を。ずいぶん時が経ったのね」。

アートとパトリシアのリアリー夫妻:1950年代初頭、パトリシアはGE初の超音速エンジンJ79の主要部品の開発に携わりました。今でも約1,300基以上のJ79エンジンが現役で、その多くは2020年まで使われる予定です。アートはGEに37年勤めました。
計算尺シスター:パトリシアは「計算要員」として仕事を始め、計算尺を使ってエンジンのテストデータを分析しました。「コンピューターはなく、使ったのはとても手の込んだ2台の計算機だけ」とパトリシア。
パトリシアの上司で、J79の開発を指揮したゲアハルト・ノイマンとニール・バージェス
イーブンデールのGE研修センターで、J79の前に立つ息子のマーク・リアリー
発明の母: 60年前、超音速ジェットエンジン開発に尽力したパトリシア・リアリー
母の日を1週間後に控え、マーク・リアリーは母のパトリシアに電話をかけました。マークは30年近くGEアビエーションの技術者として勤務し、現在はGEの新型GEnxエンジンの開発に携わっています。現在83歳で6人の母であるパトリシアは、60年前にGEが初めてジェットエンジンを開発したときの技術者でした。彼女は今でもエンジンに興味を持ち続けています。「最近のエンジンの写真を見ると、当時とはまったく違うわね」とパトリシア。マークは「今でも母さんの作ったエンジンが米国のあちこちで飛んでいるはずだよ」と答えます。
パトリシアは1949年に技術アシスタントとしてGEに入社しました。当時は全米で女性技術者が4,000人しかいなかった時代です。ボストン郊外のマサチューセッツ州リンに拠点を置いていたGEの航空部門にも、女性は数えるほどしかいませんでした。パトリシアは、「当時GEはリン工場の働き手を探していた」と言います。エマニュエル大学で数学の学位を取ったばかりだった彼女は「計算要員」として働き始め、計算尺や特殊な計算機2台を使ってエンジンのテストデータを次々と処理しました。彼女は「数学を使って何かを生み出すという考え方が気に入っていた」と言います。